特集:エコノミストはなぜ経済成長の夢を見るか?
一部引用:
私が欲望を肯定するというのは、新たな理想を構築しようとしても、自分の中にある欲望なり、快感原則の類をしまい込んでいると材料が足りなくなるから、その材料は肯定してもいいんじゃないか、という意味ですね。つまり、自分が好きなものを取り込むことで、自分の頭で考える、まともな回路が作れるんじゃないの、ということです。借りものの理論で考えてもカラ滑りするだけだから、自分の中にあるものを出さない限り、どうすればいいかは出てこない。その件に関しては私はずっと一貫しているんですよ。自分で考えるってことですね。
・・・・システムの中で考えるのではなくて、その外に出て、どう生きていくのかを考えるということです。大人になること自体が、システムから出るということに近いんじゃないかな。
・・・人間には裏があってしかるべきなのに、いつから裏を認めなくなったのかということですね。つまり、理想と現実、経済の話もそうですが、ブレていることを重要視したいわけですよ。自分と世の中との間には当然ギャップがあり、そこを持ちこたえて、ブレるというのが人間のあり方だと思うんですが、いつの間にか世の中に対応して生きるのが人間であって、それの背後にある裏はないようにしようとなった。それは、現実の中で自分を持ちこたえる能力がなくなってしまったからかもしれないですね。
腹芸という言葉があるように、歌舞伎だと内面の心情と、外側に対処している自分との二つがあって、その間でジレンマを起こすというドラマは当たり前にあるわけですよ。そのジレンマを持ちこたえる力を「肚がある」と言う。それがないとき、「肚が薄い」と言います。今は芝居もそうですが、みんな肚が薄い。台詞通りにやれば全部OKとなる状況があります。台詞でイエスといっていても実はイエスといっていない、ということはおうおうにあり、受け手もそのブレを持ちこたえて、それにどういう意味があったのかを考え、最終的に単なるイエスとは違うもっと豊かな判断する。昔はそれは当たり前だったんですが、それがいつのまにかなくなってしまった。